41日め

2015年2月17日に生まれた長男の生後41日めからの記録

柳田邦男「空白の天気図」

昨日は最低な自分だった。焦らないってなんて難しいんだろう。早く悟りを開きたい。悟りをオープンして悩みをクローズしたい。そんな扉みたいにはいかないか〜ガチャガチャ
もう闇に溶けて消えてしまいたい、といつもつけてる豆球も消して寝室を真っ暗にしたらYくんが抱きついてきた。暗くてこわい?豆球つけようか?と尋ねたら「ママがいるから怖くないよ」と言っていた。3歳児にこんなに気を遣わせて本当に申し訳ない。こういうとき、こういう可愛いこと言わせるように仕向けてるんだと思う。子どもに機嫌を取らせてるんだな。最低〜
すっごく落ち込んでるのに雨音の激しさが気になって外の様子を見たら、ビカビカ雷が鳴ってるので落ち込みつつも興奮してしまった。Yくんは怖がって、くっついて離れようとしなかった。

8月は戦争に関する本を読むことにしてるので、柳田邦男さんの「空白の天気図」を読んだ。戦時中は気象管制が敷かれていて、天気図は軍事機密だったから天気予報は禁止されてたんだって。めちゃくちゃ不便だよね。
でも日本各地の気象台にいる人たちは、「観測精神」といって、「すべての天気は一度しか発生しないから記録を絶対に怠るな」と、必ず天気を観測、記録していた。戦争で物資が不足して、観測に使う道具が無い時は目を使って空を観察した。
広島に原爆が落ちたあとも、観測精神は生きていた。玉音放送と一緒に気象管制は解かれて、天気予報も復活したけれど、通信事情が悪くて広島の天気予報が復活するのには時間がかかった。そういうとき、台風が広島を直撃した。
それは原爆が落ちた一ヶ月後だった。京大の原子力研究の主力である教授たちがたくさん、腰を据えて原爆による被害に向き合おうと、貴重な標本やレポート、研究記録をどっさり持ってきていた。それがすべて台風被害で流されて、チームもほぼ全滅した。
台風が過ぎ去ったあと、チームの一員である木村毅一郎助教授が夜空の下、原子力研究に興味を持つきっかけを思い出しながら歩くところの文章がとても綺麗。

顕微鏡をのぞいていると、硫化亜鉛にぶつかるアルファ粒子が、流星群が降るようにピカピカと光を発した。リチウムが崩壊してヘリウム原子が発生しているのだ。木村は時が経つのも忘れて、顕微鏡の世界に見とれた。
木村助教授は、無数の夜露のきらめきの中に、かつて顕微鏡の中で降る星の如く光った原子の世界の光の美しさを想い起こしたのであった。それから十年余、自分は京都大学に戻って荒勝研究室で原子爆弾の研究にたずさわり、自らも負傷して、為すすべもなく立っている。木村助教授は、国木田独歩の『武蔵野』の中の小品『星』の一節を無意識のうちに口ずさんでいた。
夜は愈(いよいよ)更け、大空と地と次第に相近けり。星一つ一つ梢に下り、梢の露一つ一つ空に帰らんとす。
しかし、口ずさむことばの美しさとは裏腹に、木村助教授の心には、空しさのみがこみ上げていた。

落ち込んでも立ち上がらなくては!!

空白の天気図―核と災害1945・8・6/9・17 (文春文庫)

空白の天気図―核と災害1945・8・6/9・17 (文春文庫)